成田山新勝寺の開運パワースッポト☘初詣ナンバー1の最強不動明王 



「お不動さん」の名で昔から親しまれてきた「不動明王」の事を知っていますか?
田舎には昔、小さな谷に小さな滝があって、岩々をちょろちょろと流れ落ちる心地よい滝つぼの音色が聞こえる清流の岩窟、

不思議な霊験あらたかな空間を作り上げているような岩屋には。その神秘な岩裾にお堂があり、不動明王像が安置されていたのをよく見かけたものです。

不動尊信仰の中核といえば「成田山新勝寺」

動明王の強力なパワーで人々を魅了している最強の寺ですね。
初詣客は日本一、神社を入れると2位 1位は明治神宮)で、正月3日で300万人が初詣にいっているそうです。江戸在住の元気な方の数人に1人がお詣りにいっているからその信望たるや相当なものです。

ご利益は、平安時代に平将門の乱を治めて以来m1100年近く、休みなく行われているという「御護摩祈願」

参拝者は「護摩木」に願い事を書き、揺らめく炎の中に投げ込んで清められ願い事成就を祈願、さらに御火加持に「財布など」をあてて不動様の御霊徳、ご利益をいただきます。

そしてお不動さまを思い浮かべて、御真言を唱えます。

江戸時代には、不動明王の「出開帳」で信仰が深く、土地土地の至る所に出向いて心願成就のご利益を確実に施して頂ける、有りがたい神仏として、当時人々は絶大な信頼を寄せていたのです。

何とも不思議な霊気を心に感じる、その「霊気」の源泉とは何か?
見えないものを見ようとして、一人佇む時間の重さ。

ご利益の実感がなければ、これほどまでに色々な土地で崇敬はされないでしょう。
これは八百万の神々全てに当てはまることであります。
ご利益を頂いたと実感した人々がいるから、その神域がさらに聖地となっていくのでしょう。

 

最近、成田山新勝寺初詣の話題が「ブラタモリと鶴瓶の家族に乾杯・新年スペシャル」で放映、次のような分かりやすい説明でした。

家運上昇、商売繁盛のご利益がどのような由来で人々の崇拝を得てきたのか。

実は成田山、江戸時代は小さな寺だった。
1701年に建造された、前の前の本堂が隣接して現存するので、これを見れば発達の歴史がわかる。昔、江戸時代の人が、成田山新勝寺をどうしても盛況にしたいと考えた。
その戦略は「出開帳」。江戸まで不動明王をお運びし「開帳(秘仏を見せる儀式)」するという、当時画期的な方法でした。
江戸時代は江戸日本橋の魚河岸の人々、すなわち生粋の江戸っ子が信仰していたことが背景にあるところで、
江戸時代の落語家が、新しお堂を作るために多額の借金した。
その返済のため、新たな信者を増やすことを考え、そこでご利益のある「成田山のご本尊(不動明王)を江戸まで運ぶことを始めた。
この公開「開帳」で信仰する人が急速に増えることとなった。
さらに、江戸時代の有名な歌舞伎役者「市川団十郎」が成田山を有名にした。
市川団十郎の悩みは「跡継ぎ」のこと。団十郎には跡継ぎとなる男子がいなかった。団十郎は成田山新勝寺まで詣で、不動明王にお祈りをしたところ見事跡継ぎが誕生した。 ご利益におおいに感激した団十郎は、その後度々成田山新勝寺にお礼参りに来ることとなり、この逸話がきっかけともなり、新勝寺は益々賑わうようになった。
地方の小さなお寺の戦略は、「出開帳」と「市川団十郎」で大きく発展への足がかりを掴んだことになる。さらに、その後明治になって、成田鉄道の最大の株主が新勝寺だったが、 明治30年に京成電鉄東京と成田山を結ぶ路線が開業、国鉄と競争しながら交通アクセスがよくなることで、更なる発展し現在に至っている。

 

以上が番組での紹介でしたが、気が付けば近くに「不動霊場」が至るところにあります。
あれやこれやとお詣りするのも日本では「八百万の神」信仰の日常的風景ですから、至極当然のお参りですね。
「お不動さん」のいわれを知って、是非とも近くの「不動明王」を訪ねてみましょう。

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成田山新勝寺へは、京成電鉄「京成成田」駅 「JR成田駅」から徒歩およそ10分です。

成田山新勝寺のマップをGoogle map で示します

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